仙台着後は所用で多賀城、塩竈へ。
仙石線ってセンゴク線と読むのだと思っていたけど、センセキ線というのだと初めて知った。

多賀城で用を足し本塩釜下車。
「頑張れ東北」が他人行儀過ぎるからと「頑張ろう日本」といった標語にソフト化されている場合を東京ではよくみるけれど、本当の被災地はどこかと問われれば、やはり東北の太平洋沿岸ということにならうと思ふ(福島はまた別種の災害だから今は除く)。
となれば、瑠璃子も東京で震度5か6の地震を体験し、先日は盛岡・仙台に足を運んだけれど、生々しい状況を見るのはこれが初めて。
仙石線に揺られながら車窓に今に戦後の東京のような広大な「虚無」を見せつけられるかと不安だったが、そうした光景はほぼないままに本塩釜到着。
しかし町に出てみると違った。
新聞等で見たような船が町に転がっている風景は、さすがに半年近く経って見当たらなかったが(今もそうした世界が女川あたりにはあるのかもしれないが)、道路は無残に捲れ、高床式住居といおうか一階が車庫だったと思われる住宅は柱のみの上に二階が危うく乗っている姿となり、港近くの公園はベンチが没するほどの池になっていた。瑠璃子の自宅あたりでは蝉が夜通し鳴いて新橋のガード下よりも劣悪な騒音に悩まされているような具合なのに、その公園の木々は晩秋の風情に立ち枯れ、万物寂として音もない。木々を支える表土が蝉の幼虫もろとも海へと流し込まれ去ったのであらう。

想像力の欠如を露呈するようだけど、初めて「頑張れ東北」の声援を送ることが出来る気持ちになった。
語弊を承知でいえば、この光景をかつて瑠璃子はよく知っていた気がした。
たとえばそれはエジプトの寒村。トルコの置き去りにされたような街角。中国の茫漠たる平原の町。ハンガリーの高速道路脇の小さな農村。
繁華街に人はなく、道路の舗装は剥がれ、そこここから水が湧き出している。
ここが踏ん張りどころだ、と何も出来ないままの我が身ながら、我がことのように思った。津波の時人々が避難したかも知れない護防稲荷なる小山に登る。ここだけは夏の騒がしさが残っていた。一山、緑の繁茂。すぐ麓の民家は破れ果てた障子と襖を玄関からかすかにさらしていた。塩竈神社の山にも登る。千古の石段が重畳として、その上に古式床しい社が堂々とたっていた。社務所で青年が篳篥の練習をしている。深山にこだまするその調べは復興への決意に違いない。
万物の移ろいを悟ったかに眺め来たっただけに思われる社も、ちょうど今年が式年遷宮といふ。
社もまた生きている。町も人も生きているし生き続けていくことだろう。
そのしぶとさを応援し、出来ることはなんでもしたい。そう思った。